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減災に挑む30のストーリー
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14 町の顔を守る

災害前

状況situation

1976年(昭和51年)10月29日、17時40分頃、酒田市中心部の映画館「グリーンハウス」より出火。出火原因は、ボイラーの過熱や漏電などと言われているが、正確な事は不明である。その日の酒田は、風速33mの強風が吹いていた事で市内中心部の約22.5haの広大な面積を焼き尽くした。

飛び火や火の粉で消火活動が困難を極め、火は11時間燃え続け、1774棟焼失、死者1名、負傷者964名、被災者1017世帯約3300名という被害になった。

事例case

最上川の河口に広がる酒田市。庄内平野で育った「庄内米」は全国的にも有名である。中世は貿易の中継地、米の集積地として「西の堺、東の酒田」と呼ばれるほど酒田港は栄えた。徳川大名の城下町である鶴岡と対照的に酒田は「商人の町」であり、その気質が今も商店街に残る。また酒田は古くから災害の多いところでもある。1800年代には鳥海山の噴火や最上川の洪水、地震、津波、飢饉、飛砂などの災害が発生している。1600〜1800年代の200年間で5年に一度は大きな火災が発生していると記録にある。

そして記憶に新しい酒田大火。酒田は、強風日数(秒速10m以上の日)が年間約90日といわれ、4日に一度は強い風が吹く。

まさに「風のまち」である。あの悪夢の10月29日も小雨まじりの強い風が火災を広げた。一夜にして焼け野原となった酒田だが、その二日後の31日の早朝には国、県、市が一体となって復興都市計画を検討し、災害後51日間で計画が策定された。

防火(延焼防止)の為の道路の拡幅、公道に面した宅地建設、市街地に防災空間として緑地帯や駐車場、公園の配置、火を拡大させた風の通り道、アーケードの代わりに商店街の店舗一階部分を引っ込める事で雨、雪を気にせずに買い物ができるように配慮された日本発のセットバック方式が採用され、歩行者専用モールの近代的商店街が完成し、「防災都市、酒田」が誕生した。

「酒田は、2年半で復興した」といわれ、近年の災害復興の事例の中でいち早い復興計画の策定などが全国的にも高く評価され、阪神・淡路大震災の復興都市計画のモデルになった。

そして30年後。酒田の中町商店街は、シャッターの下りた空き店舗が目立つ。店と住居が分離し、郊外に住む商店主も多く、また全国的な郊外の大規模店舗化の影響で今の姿となった。「車が止められない。駐車場確保が大変だ。商売がしづらい。」などの声も少なくない。

酒田市にある東北公益文科大学の渡辺暁雄助教授(社会学)は、風化しつつある30年前の酒田大火を今一度考えようと学生達と共に当時を知る人々に聞き取り調査を行っている。彼らは、活動の中で「あの頃の酒田が一番良かった。」というつぶやきを多く聞いたという。

当時の酒田は、食事をしながら映画鑑賞の出来るお洒落な映画館(当時日本一と絶賛された)を中心に柳小路(防火帯として柳が植えられた為にこう呼ばれる)という通りには、戦後引揚者の救済の為に作られた一大長屋マーケット(大火の半年前になくなっている)は、延長300m、幅18mの道に80の店が並び、町は活気に満ち溢れていた。大火は、人々の財産と共に「町の活気」をも奪ってしまった。

大火後の商店街は近代的できれいになったが、すぐに客は来なくなった。柳小路で生まれ育ち、喫茶店を営む井山計一さん(81)は、「酒田は顔のない街になってしまった」と寂しげに語る。

渡辺先生は、「今の商店街の現状は、郊外の大規模店舗などの社会的経済動向もあるが、あの大火を機に変わってしまったと思っている地域住民は多い」という。ましてや火元がその中心となる映画館であった事は、人々にとって複雑である。渡辺先生らは、「住民を結びつける精神的支柱は何か」を知るため商店街の空き店舗を利用した「街なかキャンパス」で酒田大火前後の巨大地図や写真を展示した。目を輝かせて写真を見る人々はマーケットの活気や映画館でのひとときを思い出し、昔話に花を咲かせる。

彼らの目には、自分が楽しく過ごした頃の風景と酒田大火と商店街の現状が重なって見えている。東北公益文科大学は公益の祖「本間光丘」の精神を受け継ぎ、酒田大火をきっかけにこれからも地域にかかわり続けていくであろう。

智恵wisdom

何をもって復興と言うか。酒田では、大火後、迅速な復興都市計画が策定され、街は近代的な防災都市に生まれ変わった。

それは、被災者に多くの「安心」や「元気」を与えたであろう。そしてその手法は阪神にも受け継がれた。

だが、30年後の酒田の今。人々にとって酒田大火が奪ったものは大きい。

人命や財産のほかに街の活気や風景、思い出も地域住民にとってはかけがえのないものであり、それが地域をつないでいたのである。将来を見据えた復興の街づくりは、急がずにじっくり行われるべきではないだろうか。顔のある街を取り戻す事、それが象徴的復興なのかも知れない。