いのちをまもる智恵

減災に挑む30のストーリー
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02 風景に智恵を宿す

災害前

状況situation

昭和の三大台風と言われるほど強い超大型の伊勢湾台風(台風15号)は26日夕刻、和歌山の潮岬に上陸し、伊勢湾西部など中部地方から日本海へと抜けた。死者・行方不明者、約5000人(愛知、三重県内)、負傷者、約3万8900人、全壊家屋3万6000棟、半壊11万3000棟、流失家屋、4700棟。被災者数は、全国で約150万人以上(愛知約79万人、三重32万人)となった。

その台風の経路は予測通りであったにもかかわらずその桁違いの強風による高潮が脆弱な土地(工業用水の汲み上げによる地盤沈下など)を襲い、被害を拡大させた。この伊勢湾台風の甚大な被害が、災害対策基本法を制定(1961年)するきっかけになった。

事例case

大切な食糧である「米」と生命と財産を水から守るために築いた堤防とそれを守るための強い結束で結ばれた共同体の色濃く残る輪中には、様々な暮らしの智恵が今なお姿を留めている。木曽三川から運ばれてきた堆積土砂からなる低湿地かつ高低差のない平地の長島には、三つの「ない」ものがあるという。坂、石、木である。その環境の中で人々は智恵を用いて生きてきた。

いくつかの輪中集落が合わさって出来た現在の長島輪中(堤防周囲約30km)は、古い輪中集落は外側の堤防より一段低い。

その為に3〜4mほど土を積み上げて土地をかさ上げし、外堤防と同じ高さに母屋を建てて洪水から守る必要があった。それが、水屋である。土盛りだけでは水に弱いので竹などの木を植え根を張る事で土を固めた。いわゆる屋敷林である。これは、当時の燃料である薪の確保や農具などを作る為の材料として使われたが、北西から吹く特有の冬の強風(伊吹おろし)をさえぎる防風林でもあり、洪水時の水防林でもあった。また洪水時には船をつなぐ木としても用いられた。

水屋には、米倉式水屋(米を保存する為の倉庫、風よけの為に北や西に建てられた)、住居兼用水屋(母屋より一段高く建てられ、米、味噌、衣類、団などが備蓄されてあり、非常時は居住空間にもなる)、水屋式住居(家全体をかさ上げしたもの。現在はほとんどが石垣で囲まれている)の三種類があり、現在でも長島のほとんどの家が水屋式住居である。住居兼用水屋も20〜30軒ほど今も残る。

水はけの悪い低湿地の長島では伊勢湾台風後、半年間も水が引かずにこの住居兼用水屋で生活したという話もある。

江戸期の寛政年間に出来たといわれる水屋の本来の機能は、米や味噌、漬物などの保存食を収納するものであったが、農家にとって大切な「種籾」を守る為でもあった。水屋の土を盛るには、川を浚渫して運ばなければならない。

その為には莫大な費用や労働力が必要なので居住機能を併せ持つ水屋は余裕のある家だけが行ったようである。

現在ではほとんどが石積みの水屋で燃料として必要のなくなった屋敷林は切り払われ、洪水時の船つなぎ用に敷地内に一、二本に残るに過ぎない。

智恵wisdom

災害から何を守るのか、生命や財産である事は言うまでもない。だが、長島の農家にとって生命、財産と同じくらい大事だったのは、次の年の食料生産の為の「種籾」であった。河川水位より低い土地での暮らしを守る為に自ら浚渫して土を盛り、木を植え、水屋を築いた。

そこには二重三重の智恵が散りばめられている。自らの暮らしを自ら守るという事である。

それは「水との戦い」ではなく、「水との共存」である。それが長島の風景である。