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22 100年先を想う

災害前

状況situation

約200年の長い眠りから目覚めた雲仙普賢岳は、1990年11月17日、火口から噴煙を上げ始めた。

その後、土石流や火砕流が発生する中、地域住民は避難を余儀なくされた。そして翌年6月3日、午後4時、大火砕流が発生し43名の尊い命が奪われた。それは、主に消防やマスコミの人々であった。

また焼失家屋は147棟にも登った。9月にも670秒継続した大火砕流により218棟の家屋が焼失、損壊した。

その後も度重なる土石流、火砕流により最大時7200人の避難者が不安な日々を過ごした。それは、約5年という長期間に及んだ。

事例case

普賢岳の荒涼とした山肌に今、緑が少しずつ蘇ろうとしている。90年からの度重なる火砕流や土石流により2640haの森が失われ、火山ガスなどにより枯れた樹々が15年後の今もそのまま立ちつくしている。

その荒地に9年前から毎年、木を植え続ける人、宮本秀利さん(56)は、あの43名の命を奪った大火砕流の発生した6月3日の翌日、仲間と共に雲仙岳災害ボランティア協議会(現、特定非営利活動法人島原ボランティア協議会)を立ち上げた。独自の救援物資配給や避難者の入居場所探し、全国からのボランティアの受け入れ、土砂出し作業、仮設住宅でのイベント、「こころの電話」カウンセリングなどに奔走した。このような多様な活動が、迅速に行われた背景には「十七会」という地元集団の存在があった。

「十七会」(一市十六町の和を意味する)は「島原半島はひとつ」を合言葉に1987年(昭和62年)に結成された地域活性化のネットワーク組織で、島原半島の十七市町の青年団、青年会議所、町おこしグループなどの取りまとめ役として地元で活動していた。

すでにあった「つながり」が災害ボランティア協議会の結成へとつながっていく。宮本さんは、「故郷に暮らすものとして何か出来る事があるのではないかとの思いからだった。」と当時を懐かしむように振り返る。

97年(平成9年)、「復興のシンボル」として故郷の森を自らの手で蘇らせ、百年後の子供達に故郷の豊かな自然を伝えようと宮本さん達は、官民一体で「雲仙百年の森づくりの会」を誕生させる。植生の混乱を防ぐ為に普賢岳周辺に本来自生している樹木の種子を採取し、その種子から苗木を育て植樹する方法を採っている。また水源涵養力のあるクヌギ、シイ、ヤマボウシなどの樹種を優先的に約30種の樹々を毎年、植栽している。「森は、これからは故郷の川や海、町に恵みもたらす源になる。」と語る宮本さん。

被災地に森を蘇らせるに至った宮本さんの「根っこ」には、自分を育んでくれた「島原」の風土がある。

物心ついた頃から山(普賢岳)に向かって手を合わせる両親の後ろ姿を見てきた。子供心に「人もいないのに何で山に手を合わせるのか不思議だった。」という。島原半島でのミカン、ナシなどの果樹農家の先駆者で、今でも現役であるお父さん(93)は、「お前がこうやって学校に行けるのも普賢さんのお陰たい!」と宮本少年に山の恵みの話をしていたそうだ。そんな環境が宮本さんを造園の道に進ませたのかも知れない。だが、普賢岳災害で森がなくなって初めてその存在価値を実感したという。命あるものにとって暮らしの原点である「水」、その先にある「森」の重要性に気付く。ただ単に木を植えているのではなく、そこに思いを植えていると言う宮本さんは、植樹というものを通して「自分達が死んでも故郷の島原で昔こんな災害があったと木々が語り、検証してくれる。」と100年後の未来を夢見ている。

9年前に卒業記念として地元高校生達によって初めて植えられた木々は、ゆっくりではあるが、着実に年輪を増し、森になろうとしている。

智恵wisdom

災害によって失われた故郷の森を人間の時間軸でなく100年という自然の時の流れで再生していこうとするこの「100年の森づくり」構想。

「復興のシンボル」として官民一体で森の再生をしていく事で故郷、地域を考え直す。ただ単に木を植えるのでなく、そこに心も一緒に植えていく。

それは、高校生達に愛郷心を育ませ、木々を災害の語り部として後世に伝えていくというすばらしい智恵である。