26 自分の身は自分で守る
状況situation
近代日本、第二の大災害と言われる三陸を襲った明治の大津波。約2万2000人の尊い命が波に消えた。
綾里白浜では、最大波高38.2mを記録し、1269人(住民の56.4%)が亡くなった。そしてこの津波の特徴は、ヌルヌル地震やスロー地震と呼ばれ、震度2.3という小さな地震発生後、30分から1時間後に津波が襲来。不意打ちであったという。
その悲劇から37年後の昭和8年に再び津波が三陸海岸を襲うことを誰が予想しただろうか、M8.1 の地震によって再び綾里では最大、28.7mの津波が発生し、岩手県内では死者約2600人、流失、倒壊家屋約6000戸という大惨事になった。
それは二年前からの東北の凶作という状況下であった。その後も1960年(昭和35年)のチリ沖地震(M8.5)でも22時間後に津波に襲われている。この数度の災害を経験した綾里では、昭和津波の翌年、高所移転を決断し、その後防潮堤も建設された。
また、教訓を後世に残そうと津波伝承碑や津波避難の看板を住民自ら建設した。今後、最も発生確率の高いといわれる宮城県沖地震による津波も懸念されている。
事例case
「津波の時は海の底から波が巻き上がってくるんだよ。津波の後、いつも海底の砂にくっついているカレイが打ち上げられているのを見ると分かるでしょ。台風の時の波とは違うんだよ。大きな岩も打ち上げられたんだよ。それだけ怖いもんなんだよ。」と子供達に語るのは、津波研究家、山下文男さん(82)。
津波が発生した場合、波高が高くなりやすい急峻なリアス式海岸である三陸海岸には、明治の津波以降「津波てんでんこ」という言い伝えがある。津波の時は、事前に認め合った上で「てんでんバラバラ」に逃げて一族共倒れを防ごうという意味である。
明治の津波の際、子(夫)が親(妻)を助け親(妻)が子(夫)を助けて共倒れになったケースが多かったという教訓から生まれた。
この「津波てんでんこ」を伝え続けている山下さんは、小学校三年生(8歳)の時、郷里の綾里で昭和津波に遭い親戚、友達を多く失った。
お父さんは一目散に自分ひとり逃げ、山下少年も負けずに自力で逃げて助かった。日頃から「津波の時は、てんでんこや!」と言い続けていた父親もまた祖父から「てんでんこ」を聞いて育ったという。「父親はてんでんこの権化のような人だった」と笑う。
「たとえ親子でも自分の命は自分で守る。それが防災の基本だ」と語る。だが、「てんでんこ」ではあるが、地域防災などで高齢者や障害者などの災害弱者(災害時要援護者)の避難も合わせて考えなければいけない事も強調する。
そして津波体験者が高齢化する中、風化への危惧から次世代の「語り部」ボランティアの必要性も説く。
チリ津波の時は余裕があったのでバイクを押していた人やランドセルを背負って避難した小学生がいたという。
だが、山下さんは、「津波はそんなもんじゃない、恐ろしいもんなんだ。とにかく一分一秒でも早く逃げる事だ。」津波のタイプがそれぞれ違う事も伝えなくてはと語る。
山下さんは自分の体験したあの日から73年後の今も郷里の学校や公民館で子供達に「津波」を語り続けている。
智恵wisdom
津波が押し寄せて来たらだれかれ構わずとにかく逃げる。一人でも助かる事。自分の命は自分で守る。そうしなければ一族の血が絶えることにもなる。それが「津波てんでんこ」の真意である。(当然、災害時要援護者の問題は別に考えなければならない。)過去の苦い経験から出てきた「津波てんでんこ」という言い伝えを日頃から家庭や地域で次世代に語り継いでいく。
生き証人の「伝承」を記録し、検証し、避難訓練や防災教育に生かしていく。実体験からつむぎ出される生きた智恵を掘り起こす事もまた「減災」であろう。