いのちをまもる智恵

減災に挑む30のストーリー
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災害前

状況situation

1896年におきた明治三陸津波は岩手、宮城、青森、北海道を襲い、2万2000人の命を奪った。

三陸海岸の田野畑村では明治津波の際、最大波高29mを記録し、232人の死者を出した。

37年後の昭和三陸津波では再び岩手県を中心に3064人の死者、行方不明者を出し、田野畑村では流失・倒壊家屋123戸、死者103人の被害を出した。

その後、一年で岩手県では約3000戸が高所移転し、三陸海岸の住宅地図は一変する事となる。

事例case

「高所移転」。津波から命を守る為には海岸沿いの低地を避けて高台に住む事が最良の方法であるのはいうまでもない。

明治津波の後、三陸海岸では高所移転した村もあったが、住民の多くが漁業を営んでいる為、不便である事や先祖代々の土地を離れることへの抵抗などを理由に元の場所に戻ったケースも多い。

また、田老町の様に移転に適する土地がない事、土地への愛着などから大防潮堤建設に踏み切った場所もある。

また高所移転した際の無理な開拓やその後の住宅開発のよってリアス式の急傾斜な土地の崩落による土砂災害や土石流も近年起きてきている。二度の甚大なる津波災害を経験した三陸では、昭和津波の後、国や県の積極的な方針で約3000戸が高台へと移転した。

国や県による低金利の資金融資が「高所移転」を促進した。

三陸海岸の田野畑村(下閉井郡)も高所移転した集落のひとつである。明治津波で多くの住民が亡くなった田野畑村は、当時、日本一の木炭の産地であった北上山地からの「木炭積み出し港」として急速に発展し、よそからの新住民が集落を作っていく。

彼らは当然津波に対する知識がなく、37年後の昭和の津波で波に呑まれてしまう。その後すぐに田野畑は高所移転に踏み切る。

現在ではほとんどの家が海岸から少し離れた斜面に建っている。

田野畑村漁業協同組合長の畠山栄一さん(84)も、昭和の津波で生き残ったひとりだ。畠山さんは、「農協や漁協が経済活動の中心になってワカメで復興したんだ。」と当時の復興の様子を語る。

ワカメの生産日本一である三陸海岸は、当時、原料不足に悩む徳島の鳴門にワカメを販売していた。

その鳴門の灰干しワカメの製法を田野畑村でやろうという事になり、鳴門から指導に来てもらう事になった。

地元鳴門では、伝統技法を教える事への反対の声もあったが、「日頃、お世話になっていて、困っている時に助けるのは当たり前や。」 と反対を押し切って津波の打撃を受けた田野畑にやって来た4人(女性3人と男性1人)は懸命に技術指導にあたった。

その「灰干しワカメ」の販売を機に当時の軍需景気もあいまって田野畑は活気付いていく。畠山さん達は、「鳴門の人は復興の恩人や」と鳴門の4人の功績をたたえて記念碑を建立した。現在でも三陸は鳴門と「灰干しワカメ」を通じて交流している。

智恵wisdom

津波から命を守る最良の方法といわれる「高地移転」は、時の行政によって勧められたが、土砂災害などの新たな問題も出てきている。

災害後の復旧・復興の方法も多面的に考えるべき事を示唆している。

近年の国内外の災害からの復興の過程にも見られる「コミュニティービジネス」を70年前に三陸の小さな漁村で行われていた事は、智恵である。ワカメを使った地場産業を他の地域の人の力を借りながら興していく事で集落が活気付いていく。

現代にも通じる「復興」のひとつのあり方であると思われる。

灰干し(ワカメ)‥‥鳴門に150年の伝統をもつ独特の加工方法。ワカメに灰をまぶして乾燥させる事で風味を長期間閉じ込め、灰のアルカリ分が緑色を保つ作用がある。