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04 愛される景色を築く

災害前

状況situation

兵庫県北部、日本海に程近い城崎温泉。県内だけでなく関西、中国からの観光客でにぎわう穴場の温泉地である。

だが、ここで80年前に地震があったことを知る観光客は少ない。

1925年(大正14年)5月23日、正午少し前「北但大地震」は発生した。

但馬地方を流れる円山川河口沖を震源に、当時では最高レベルであった震度6を記録した。現、豊岡市を中心に死者423人、倒壊家屋750棟以上、焼失家屋1700棟以上という大きな被害をもたらした。城崎温泉では地震により発生した火災が風にあおられ温泉街のほとんどを焼き尽くし、廃墟と化した。

事例case

城崎温泉駅に降り立つとすぐに足湯を行う湯治客の姿が目に入る。週末には、軒を連ねるお土産屋、旅館、お洒落なカフェには客がごった返す。そして夕刻には宿泊客が浴衣姿で外湯を浴びに街を行き交う。

のどかな風情のある光景が広がり、兵庫県では人気の高い温泉地である。

1400年前に始まったと言われる城崎温泉は、その浴効と周囲の自然の美しさにより江戸時代の頃から多くの湯治客も訪れ、日露戦争後は傷病兵の療養地としても指定された。その後も志賀直哉、島崎藤村などの文豪も数度、この地を訪れるほどの場所であった。

だが、大正年間、「北但大地震」はある日突然、温泉街を襲った。正午前という時間が、多くの命を奪った。昼食準備中で家屋倒壊による圧死や火災により死者は272人を数えた。その71%が女性であったいう。また入浴中で倒壊や火災によりなくなった温泉客も少なくなかった。

一瞬にして焼け野原になった城崎は、人口3410人の内、272人が亡くなり茫然自失の状態だった住民の中からひとりの男が立ち上がった。

町長、西村佐兵衛(1881〜1961、当時43歳)である。ダブダブのオーバーコートにたすきを掛け、脚には地下足袋、首からメガホンという奇妙な出で立ちで打ちひしがれる住民を慰め、励まして回った。そして焼け跡の湯つぼに手をつけ、「湯がわくかぎり、城崎は死なぬ。」という言葉と共に復興への決意を固めたという。そして彼は、温泉街のゼロからの復興に奔走する。

まずは、以前から床上浸水などの被害のあった大谷川の洪水対策の為、町の地盤を1〜2.5mかさ上げし、川の幅と深さを二倍にした。

そこに玄武岩で積んだ護岸を作り、弁天橋などの半円状の太鼓橋を四つ掛け、柳並木の雰囲気のある町並みを作り上げた。

そして防火対策のために住民に土地の一部を提供してもらい、道路を拡幅、直線化する。これは来る車社会をも見越していたといわれる。

また「一の湯」など要所にコンクリートの防火壁の家屋を配置し延焼を防ぐ工夫を施した。

こうして西村町長と住民達は、江戸時代の風情のある湯の街づくりを基本として見事に復興を遂げたのである。現在の城崎の賑わいを見れば、西村村長の精神が今も受け継がれている事が分かる。

城崎に300年以上続く伝統工芸「麦わら細工」の伝承者のひとりである前野治郎さん(81歳、城崎在住)は、北但大地震の年に生まれた。

「震災のあった5月23日の震災記念日がここの防災訓練の日になっているんだよ。

前の人にぶつからないように片手は前の人の肩に片手は自分の胸に当てて一列になって逃げる訓練を小さい頃よくやったなぁ。」と城崎の復興を振り返りながら語ってくれた。温泉街の奥にある温泉寺に眠る犠牲者の人々は、見事に復興した城崎の町を今も見守っている。

智恵wisdom

現在の温泉街の賑わいを見れば、一度壊滅した町とは思えない。それは城崎は見事に復興した事の証でもある。

その復興の過程の中で町づくりに防災上の様々な工夫を施し、地域の宝である温泉を使って経済的にも復興を成し遂げた。

また、防災と景観という一見矛盾しそうな問題をうまく組み合わせた復興を総務省消防庁消防大学校消防研究センター所長の室崎益輝氏は、日本における「三大復興」に位置づけ、世界に誇るべき都市復興遺産だと評する。ここには学ぶべき智恵が沢山詰まっている。