09 記録し検証する
状況situation
沖縄から北上してきた大型の「台風23号」に伴う豪雨が、各地で土砂崩れや河川の氾濫を引き起こし、兵庫県内で26人の死者を出し、床上浸水以上の被害は約1万1千世帯にのぼった。
中でも被害の大きかった豊岡市では、町の中心を流れる円山川が決壊し、市の9割に当たる1万5000世帯、約4万3000人に避難指示が出された。(実際の避難は5000人にも満たなかったという。)
事例case
円山川流域には、古代の*アメノヒボコ伝説や室町時代の「人柱」という悲話も残るほど大昔から水と人間の戦いの歴史がある。
年に二、三度も氾濫を起こし、農作物や人的な被害も少なくなかった。だが、本格的な河川改修(治水工事)が行われるようになったのは明治に入ってからである。
昭和34年(1959年)の伊勢湾台風や昭和36年(1961年)の第二室戸台風、昭和51年(1972年)や平成2年(1990年)の台風でも数千戸を超える浸水家屋などの甚大な被害をもたらした。そして2004年10月20日、再び但馬を襲った台風23号。台風の多かったこの年は、すでに山は保水力の限界に達していた。全域に降り続いた大雨は、急な増水をもたらし、円山川の堤防の決壊をおそれた豊岡市は、支流の水を本流へと排水するポンプを停止する事を余儀なくされる。それは、*内水氾濫を引き起こす事を意味していた。(堤防決壊の被害は内水氾濫の比ではない。)だが、その甲斐なく円山川の堤防は決壊し、住宅地に甚大な被害をもたらした。
当時、神戸新聞社但馬総局の記者であった森信弘さん(33)は、自宅も床上浸水したが、後の検証の必要性を感じ、被害を記録すべくカメラ片手に浸水した街を歩いた。
そして後に神戸新聞社はその詳細な記録、証言、検証を一冊の本「円山川決壊」に綴った。その検証の中から急激な増水による避難勧告の遅れや上流域の山林の荒廃、防災システムの必要性、わが町を自分達で守る地域力、水害とのつきあい方などの問題が明確になってきた。その中でも山林の問題では、60年代に大量に植えられた針葉樹は、その後の海外からの安価な木材におされ、間伐も行われずに根の張りも弱いまま放置されていた。
この間伐の遅れが今回の被害を拡大したという被災者の声も多かったという。
また、武家屋敷などのあった古い場所は高台にあり水に浸かっていない。危ない所は避けて住むという基本的な事を豊岡の歴史が教えている。
そして自然との共生のシンボル、*コウノトリは過去に幾度も氾濫を繰り返してきた円山川の肥沃な湿地帯のよって育まれた。
一度絶滅したコウノトリを今、豊岡で繁殖、再生させようとしている。それは、人が災害、環境とどのようにつきあっていくかを象徴しているかのようである。
智恵wisdom
食害を克明に記録し、検証していくこと。そこから見える様々な問題点を教訓として次に活かす。
自然の持つ平穏時の恩恵と災害時の猛威の両面の中でどのように折り合いをつけていくかが問われている。
いくらハードを強固にしたとしても自然の力を完全に抑え込む事が出来ないことは、過去の歴史が証明している。
その中で自然と共存し、川の恵みを受けながらいかに被害を最小限に留めていくか。征服から共生へ。
近年、国も「あふれる川」を前提として遊水地や二線堤などの「柔」の治水対策も考え始めている。
*アメノヒボコ伝説‥‥古来より水害に悩まされていた円山川流域の但馬に朝鮮半島の新羅からやってきた王子アメノヒボコが、当時、泥沼だった但馬平野の大岩を切り開いて水を海に流し、沼地を田んぼに変えたという伝説。製鉄技術を伝え、大規模な治水工事をしたことから「但馬開発の祖神」として出石神社に祭られている。
*内水氾濫‥‥本流の水位が支流の水位より高くなると本流の水が逆流する。それを防ぐ為に水門を閉じてポンプで支流の水を本流へと流す。ポンプを停止すると行き場をなくした水が支流域にあふれ出る。
*コウノトリ‥‥30年以上前に日本から姿を消した。最後の生息地であった豊岡で2005年から飼育、放鳥が試験的に行われている。コウノトリが生息できる為には餌となる昆虫や小動物、巣を作る高木など豊かな自然が求められる。