RSY事務局・清野です。震災がつなぐ全国ネットワークの顧問・村井氏からの雑感レポートをご紹介します。
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能登半島地震後5日目になる3月30日・31日の二日間、「中越・KOBE足湯隊」として被災地に入り、避難所の被災者に対して足湯マッサージを行ってきた学生さん達が帰ってきた。足湯を行っている間に記録した被災者の”つぶやき”集である「足湯ノート」を見せて貰った。足湯に来られるのは、圧倒的に高齢女性である。以下に少し足湯をしながらの被災者のつぶやきを紹介したい。
(80才 男性)
金沢にいる子どもが、「こっちに来いというが住み慣れたとこがいい」
(?才 女性)
夫は船乗りをしていた。1年のうち家にいるのは2ヶ月縲鰀3ヶ月あとはずっと海の上にいる。夫がいない間、自分は姑と子どもの面倒を見ながら働いた。土方の仕事も何でもした。子どもにこんなつらい思いはさせたくない(船乗りの家族)という気持ちから無理をしてでも学校へやり、やがて都会で就職していった。
(91才 女性)
村に戻れれば畑仕事をして足腰を鍛えるんだけど、避難所での生活は何もすることがないから、座っているだけだからつまらない。
(70才 女性)
今の家に住みたい。「若い人とは、自分の子どもでも一緒に暮らすのは大変」
(60才 男性)
かつては漁師で、世界中の海を渡っており、ずっと集団生活をしていたし、みんな顔見知りだから今回の避難所での生活は船での生活よりずっとよい。
(?才 女性)
これからワカメ取りで忙しくなる時期なのに、家は帰れないから何もできない。
というようにほんの一部の声なのでこれで被災者すべての心境を察することは到底出来ないが、地震発生5日後で緊張されているせいか以外と悲壮感がない。おそらく、仮設住宅の入居が話題になると一転して厳しい現実が目の前に来て、あれこれ先のことを思い悩むような気がする。実は、この被災地門前町は元船乗りであった方が多いそうで、男性の留守の間は女性が家を守ってきた。つまりいつも3世代の家族と留守番の女性(最大3人)が家を守り続けてきたのでしょう。船乗りの年金は結構いいらしく、それを子どもたちの教育費用あるいは家の普請などに充てるというパターンが普通で、日頃の生活は、畑で野菜を作ったりして慎ましく営んでいたのではないだろうかと思われる。
地震発生から10日目が過ぎ、避難所の避難者の数も減りつつあり、避難所の統廃合もおこっている。それにしても70才縲鰀90才という超高齢社会で暮らす被災者のみなさんは、それでも避難所ですることなくじっとしていても仕方がないので、当然多少危険でも、家の片づけに時間をかけるようになる。こうした被災者の姿勢は、決して受け身ではなく「希望」に対する能動的な行為だと思う。しかし、現実はグチャグチャになった家財道具を、延々と片づけながら将来のことを考えることになり、もし法制度や保険によって住宅再建が財政的には可能であっても、次世代へのことを考えた時の厳しい現実に愕然されるのだろう。この段階では2度目の「聴く力」が必要となる。これからしばらくは建築士や法制度などのことを正確にアドバイスできる支援体制が大切である。震災がつなぐ全国ネットワークの仲間は、穴水町で着々とその準備をしている。新潟県中越地震でも開催した「復興寺子屋」である。是非そちらの方も注目して下さい。
こうして「かすかな希望」を見出そうとしている時期に、運悪く避難所で「ノロウィルス」が検出されたと発表があった。被災者の方々にはくれぐれも注意をしていただくしかない。昨日のM新聞の夕刊で「ふさぎこんでなんかおれんわねぇ」という78才のお一人暮らしのおばあちゃんの笑顔が紹介されていた。こういう記事は、ほんとにこちらも元気になる。この新聞の見出しにもあったが「笑顔への一歩」が、再建の一歩でもあろう。