皆さま
浦野です。
宮城県七ヶ浜町での被災者支援活動について、4月3日(日)~4月10日(日)の1週間の活動を数回に分けて報告します。
【被害概要(4月10日8:00現在:七ヶ浜町災害対策本部調べ)】
・死者:59名(うち身元不明者:2名)
・安否確認不明者:15名
・負傷者:17名
合計:91名
[避難所]
松ヶ浜小学校、生涯学習センター(中央公民館)、七ヶ浜国際村、亦楽小学校、吉田浜公民分館(全5施設・避難者数:860名)
[ライフラインの状況]
・電気:ほぼ復旧(津波被害のひどい菖蒲田浜・花渕浜・代ヶ崎浜の一部は不通。今後復旧の見通し立たず)
・水道:津波被害地域周辺と一部高台を除きほぼ全域で通水。
・プロパンガス、都市ガス復旧。
・電話:NTTの収容局が水没したことから一時不通になっていたが、4月14日より順次復旧し、全域復旧は5月連休になる見通し。
・燃料:町内で被害を免れたガソリンスタンドは1軒。その他のスタンドの復旧のめどは立っていない。しかし一時の長蛇の列は解消されつつあり、安定供給できている様子。
・4月11日より七ヶ浜町民バス「ぐるりんこ」暫定ダイヤでの運行開始。
[七ヶ浜町の被害の特徴(役場職員の話より)]
・七ヶ浜町は「東宮浜」「代ヶ崎浜」「吉田浜」「花渕浜」「菖蒲田(しょうぶた)浜」「松ヶ浜」「湊浜」の7つの浜から成っている。特に菖蒲田浜・吉田浜周辺は津波の被害が甚大で「命以外全ての物を失った」という方が多い。また、花渕浜はじめ、その他の地域でも沿岸付近は、床上2mを超す浸水被害に遭った家屋も少なくない。
・もともと風光明美な場所で、外国人専用の避暑地区域がある。北海道や四国からも避暑地として多くの人たちが別荘を構えている。そこは高台にあったので大きな被害を受けなかった。
・東北一古いと言われる海水浴場「菖蒲田海水浴場」も壊滅的な被害を受けている。津波は防風林を超えて町を襲った。全くの想定外であった。
・今回亡くなった中にはお年寄りが多かった。この地域は52年前のチリ地震を経験している。その時にも3m~5mぐらいの津波が来て、被害を受けた地域もあった。その後行政は3~5mの津波に対応するような防波堤を設置した。その安心感と「53年前のことを考えれば、今回もさほど大きな被害にはならないだろう」と家に戻ってしまったお年寄りが犠牲になってしまった。
・家を失った若い人たちは、「もう元の場所には家は建てない」という人が多いが、お年寄りは土地に対する愛着が強く「また住み続けたい」と言っている。
・津波は2方向から襲ってきて、津波同士がぶつかり、さらに大きな波となって被害を拡大した。
・新築してから1週間もたたないうちに被害を受けた家もある。ローンどころか1回目の支払いすら終わっていないだろう。本当に気の毒に思う。
・沿岸部では漁業や海苔の養殖が盛んだった。しかし、船を失った人たちも多く、養殖場もほぼ全滅した。内陸部では田園地帯もあったが、塩水を吸った土壌がもとに戻るまで、長くて7~8年かかるだろうと言われている。
○RSYこれまでの活動
■日本財団ROADプロジェクト「足湯隊」受け入れ/4月3日~7日
日本財団ROADプロジェクトと震災がつなぐ全国ネットワークとの合同企画として行われている足湯隊21名が東京より派遣された。震つな事務局を兼務しているRSYでは、地元の災害ボランティアセンターと共に、現地での受け入れ・活動コーディネートを行い、6か所(当時)全ての避難所での足湯、1地区での個別訪問(ニーズ調査)を実施した。
[湊浜地区でのローラー作戦(戸別訪問調査)]
・湊浜地区は沿岸沿いの十数件が床上・床下浸水を受けた地域。また地震の影響で、壁の亀裂や瓦の落下など一部損壊の被害を受けた世帯も多数ある。4月4日の活動では、メンバー12人が6グループに分かれ、地域の民生委員と共に災害ボランティアセンターのチラシを持ちながらお宅を訪問し、声をかけていく作業を行った。在宅の住民へは、行政から全13地区の地区長へ物資が配られ、その後末端の住民まで手渡されるという仕組みがあるようだが、子ども用・介護用おむつ等、個別の物になると十分対応ができていない様子。ニーズがあった世帯についてはボラセンに報告し、翌日必要な物をお届けした。
・5日、水道が復旧したことにより、住民が避難所から自宅に戻り始めていた。訪問した82歳のお年寄りは「水道が止まっている状態で帰っても、水や食べ物を誰かに持ってきてもらわないと生活できない。迷惑をかけることが分かっていたから避難所に行くことにしたの。3週間暮らしたけどホントにしんどかったわ」と大量の洗濯物を一人で片付けようとしていたため、お手伝いさせて頂いた。
・1回目の訪問で気になるお宅を、今度はバケツと雑巾をもって翌日再訪問した。1回目は「自分たちでできるから大丈夫」と断られたお宅も、掃除用具を持っていくと「じゃ、畳拭きをお願いできる?電球を取り換えてくれる?」など次々と依頼を言ってくれるようになった。「こんなことまでボランティアさんにお願いできるとは思わなかった」とのこと。また津波や浸水に遭わなかった地域
の方については「私たちより大変な人が沢山いるんだから、そっちを手伝ってあげて」とおっしゃる方が多い。
・2回目の訪問では沿岸部で1階部分が浸水する程の大きな被害を受けた家屋エリアに掃除道具を持って訪問した。1軒で作業を始めると周辺家屋2軒からも声がかかったのでボラセンに繋ぎ、対応した。時間はかかるがこのような形で何度か現地を訪問しながらニーズに辿りついていけるような努力をしなければ、必要な方に必要な支援が届かないと感じる。
[避難所での足湯ボランティア]
※足湯つぶやき・主なものを抜粋
(女性60歳代)
・先日家の跡に行ってみたらチューリップが1輪咲いていた。何もかも無くしたがそれがとてもうれしい。花作りが好きで苗から育てている。これからと思っているのに苗づくりが出来なくて淋しい。この生活がいつまで続くのか不安。
(女性80歳代)
・逃げてきたままの格好だから、真冬のままでね。足湯もシャンプー(洗髪サービスも一緒に実施されていた)も初めてしてもらう。気持ちいいね。
(男性70歳代)
・人生で災害に2度あった。ここの所ではプライバシーがないのが一番つらい。
(男性70歳代)
・とにかく涙が出てしょうがない。泣けてくるね、本当に。
(女性50歳代)
・ここに残っている人はだいたい家が無くて残っているの。家が心配。早く住むところが決まるといいけど。
(女性70歳代)
・津波で店も家も流れてしまったんだけど、娘が貯金通帳3冊みつけてきてくれたの。(シャンプーと並行だったため)気持ちいい。極楽みたいね。(おばあちゃんおしゃれだもんねーという問いに対し)そうね、オシャレな服を着て街を歩きたい。
(女性30歳代半ば)
・1週間髪を洗えないのでフケだらけ。2-3日洗えなくても平気になってきた。寝返りが打てなくてねえー(狭いので)。肩凝るんだよね。
(女性60歳代)
・今年は4月なのに雪が降って寒いなあ。お風呂に入れないから、気持ちいい。お風呂に入れたら体が温まるのになあ。やっぱりお風呂に入らないとねえ。今日はありがとう。
(女性60-70歳代)
・着の身着のままで逃げたので、化粧品がなくて、自分の顔がどうなってるのかわからなくてねえ。ときどき自分で足のマッサージしようかな。
(女性9-10歳)
・(途中まで無口で涙ぐんでいて・・・さいごに)大きくなったら天文台で働くの。
(男性50-60歳)
・ずっと頭がねえ・・(ぼおっとする)昨日やっと3時間くらい眠れた。ありがたいねえ。
(男性・80歳代)
・築17年の新しい家が2階まで土水につかった。もう住めない。ベランダにつかまって生きのびた。
(女性70歳代)
・脳卒中になってから、障害もっててお医者さんに外を歩きなさいって言われたけどそんな気にならなくてね。指輪もネックレスも全部流された。薬は有るけど検査(定期的に受けていた)はまだ受けられない。避難所に来てからの方が(体の障害が)めっぽう悪かった。前はオシャレしてたけど、貴金属のものは全て流されてしまった。
(女性69歳)
・仮設住宅は二年間だから、その後どうすっかわかんない。どうしたらいいんだろうねー、家立てるにもそんなに財産ないし~。家は全壊した。国際村(避難所)は設備が整っていてすごくいい。いつまでいれるかな~。
(女性80歳代)
・一回に三回は目が覚めて寝付けない。お父さんがおむつをつけっぱなしでかわいそうだ。
(女性80歳代)
・誰もこんなことになると思ってなかったー。家は残ったけど畑や田んぼはダメになってしまってー。両膝に器具が入っているの(左8年前、右3年前)。でも私、体操とかやってがんばってんの。娘、息子もみな無事だったからそれだけでもよかったと思う。わかんないけど、おじいさんとがんばっていくよ。
(男性60歳)
・ここにいると同じ事の繰り返しだから、朝4時に起きて30分運動(歩いて)してる。自転車で5分坂を下ったところに家があっただけで流されて何もない。めいっこもおいっこもまだ見つかっていない。写真でもあればと毎日探すけどなーんにもない。
(女性60歳)
・床が固いので肩が凝る。家は70坪もある大きい家だったが、津波で200mも流された。退職金でローンは完済したが、また家を建てねばならない。でも畑が残されたので幸いだった。
(男性72歳)
・家を流され全部なくなった。夫婦でここにきている。環境が急に変ってしまって、不安。痴呆が進んでいるようでとても心配だが、今は何もできない。心配でねー。
(女性16歳)
・私、家がなくなっちゃったんですよ。その日は卒業式で、卒業式終わって普通に帰れると思ってたんです。でも、帰ってみたら、家、何にもなくて。普通、2階だけ残ってる家とかあるんですけど、私の家は本当になんにもなくて。私の家の写真とかはあったんですけど。お風呂、この前、水が出るようになって久しぶりには行ったんですけど、全然違いますね。入学式は23日です。塩釜の学校。
(女性40歳代/役場職員)
・私、家がないのですよ。1秒の差で助かった。生き残ってよかった。車の中に水が入ってきて、ものすごく怖くて、身体も濡れて寒くて。木に登って屋根に移って、家の中に入った。その家の中で一晩過ごした。怖かった。思い出したくない。一緒に同行した同僚はまだ見つかっていないんですよ。みんな携帯使えるからメールくれた人に連絡したら泣いて喜んでくれて。津波、すごく早くやってきた。
(女性44歳)
・お店が流されて道具がなくなった。親戚の家を間借りしている。まだ家があるだけいい。最初はボランティアでもカットする気が起きなかった。何もしたくなかった。でも最近になってやっとボランティアする気になった。何もしないよりした方がいいな。(現在避難所でカットのボランティアをして下さっています)
(女性22歳)
・仕事で泉(地区の名前)に行っていた。親と3日間連絡が取れず浜に近かったから絶対死んだと思ってたんですよ。でも3日目に父から連絡が来てめっちゃうれしかった。おとといから水道が来てめっちゃうれしくて、おばあちゃんと超喜んだ。水道がこんなにも大切なものとは思わなかったーって実感した。靴下はもらいもの。お母さん最初は元気なかったけど、やっとやる気が出てよかったー。最初の1週間は何もしたくないって言ってた。
(女性78歳)
・1階が流されて、自分の洋服がないねえ。ここ(松島)は本当にきれいなところで、魚も貝もおいしいんだよ。今は何にも無くなっちゃったけどねえ。孫もひ孫も亡くなっちゃったけどねえ。戦争よりもひどいね。若い人たちと一緒にがんばりたいけど。
(女性70歳代前半)
・美容師。家は全部流された。またお店始めるにも1000万円くらいかかるからやめることにした。もったいないけどね。新しいお家もこの前みてきて、おいの家のとなりに空き家あったからそこに引っ越すことにしたんだ。また住んでたところに戻ろうと思ってる。何年生きてるかわからないけどお父さんと2人でね。だからお父さんにがんばって働いてもらおうと思っている。ここでは炊き出しやってるの。働いた方がいいちゃね。地震保険にも入っていたからちょっと安心だわ。船が大きいのと小さいのあって小さいのは流されたけど大きいのはちょっと壊れてね。それも保険入ってたからよかったなあと思って。
(男性71歳)
・高台に逃げて、自分の家が流れるのをただ見ているだけだった。自然にはかなわない。津波の翌日にドロボーが歩き回っている。昨年、のりの漁をするといっても800万円はかかる。奥さんの嫁入り道具の仙台たんすは見つかったがクローゼットは1つも見つからなかった。
(男性15歳)
・部活はテニスをしています。手ちっちゃくて背が低くて伸びないんですよ。高校は4月8日が入学式の予定だったんですが、20何日かにズレました。春休みに友達と遊ぶ予定だったんですが、行けなくなって、でも、毎日24時間一緒で楽しい。高校はチャリで30-40分のところにあります。地震のときは中学校にいて、津波がくるってわかってたから、急いで家に戻って寝たきりのおじいちゃんと車イスで施設に連れて行って、おばあちゃんも連れて行って家に戻って荷物を持って逃げました。時間が20-30分あったから大丈夫だったですが、服とかは持ってこれなくて家は全滅しました。
(女性60歳代後半)
・建てて15年くらいの家が津波に襲われた。2階の腰の高さくらいまで水が来た。今日は家に戻って使えるものを外へ運び出したりしてきた。要らないと思って捨てたものも、また考え直して拾ったりしている。要るもの、要らないものの判断もあるので、他人に手伝ってもらうわけにもいかない。でも、家の周りにたまっているゴミやガレキを処分してもらえば助かるかも知れない。これから仮設住宅に移ることになる。自分は散髪屋なので避難所の中でもボランティアで散髪をしている。夫が1年ほど前に肺がんで死んだ。逆でなくてよかった。男が1人ではこんあことがあったら生きていけないだろう。今は夫が守ってくれていると思っている。足湯やマッサージをしてくれるのが一番助かる。