みなさま
13日より現地入りしているスタッフ・関口からの現地レポートをお伝えします。
◇3月18日(金)
【気仙沼】
宮城県最北の気仙沼市に入った。個人的なことで恐縮だが、大学時代の研究室がこの地域のまちづくりに参加しており、一度だけだが訪れたことがあった。十数年前のことだ。
そんな思い入れのある気仙沼が、変わり果てていた。
美しい海とユニークな「マグロの貯金箱」などがあった港は見る影もなく、風光明媚な唐桑半島の海岸は防波堤のコンクリートが紙切れのように引きちぎられていた。
そして、自衛隊の空撮映像で赤々とした火に包まれていた鹿折(ししおり)地区。地震、津波、火災に次々と襲われた民家や工場は、あめ細工のように折れ曲がった鉄骨や、黒こげになった骨組みを無残にさらしていた。
まるで爆弾が落ちたような、まさに戦場の様相。
「地獄だ。津波で地獄を見た」
避難所に逃れてから1週間ぶりに戻ってきたというおばあさんは顔をひきつらせて叫んだ。
別の女性は「あそこにいいお肉屋さんが建ってたの。お魚も本当においしかったのよ」
と失われた情景を語りながら、呆然と立ち尽くしていた。
ここにはさらに大事な建物があった。社会福祉協議会の事務局が入る福祉センターだ。災害時のボランティアセンターの運営などを担うべき社協の拠点が、跡形もなくなっていた。
社協の機能は被災後、内陸部の老人施設に移ったと聞いた。
訪れると施設の一室にビニールシートが敷かれ、その上に長机やいすが並べられていた。
職員は2人が安否不明。残った職員ががれきの下からパソコンを見つけ出し、ようやく起動できたのがつい今朝のことだったという。
「県社協ともうまく連絡がとりあえず、何から手を付けたらいいかわからない。途方に暮れている」。常務理事の一人は嘆いた。
こうした社協に代わり、市が役所の一画でボランティアの受け付けを始めていた。この日までに市民65人が登録し、一部は物資の仕分けなどを任されている。
火災現場のがれきの片付けなどは危険すぎてボランティアでは担えない。
避難所の支援なら始めやすいはずだが、市内には99カ所の避難所に約2万人が身を寄せており、その数は日々増えている。今の体制ではとてもボランティアを割り振れないと、嘆く職員の姿がまたあった。
1800人余りの避難所となっている市内の総合体育館では、おにぎり1個で1日2食か3食という被災者の生活が1週間続いている。しかしそれでも恵まれているほうだと、いったん家に戻った住民が再び避難所に集まってくる。
食料、物資不足に加えて、かぜも流行り始めているそうだ。
避難所の責任者は「マスクはいくらあってもいい。全員につけさせたい。
魚のまちだから、町中に散乱した魚がいずれ腐り始めるだろう」と、衛生面を懸念。被災者からも「トイレが詰まってきた。お風呂も入りたい」という声があがっていた。
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