岩手・宮城内陸地震から 1 年

皆様
RSY浦野です。
昨年6月14日に発生した岩手・宮城内陸地震から、今日で丸1年が経ちました。被災地となった宮城県栗原市では13日から14日にかけて、「6.14栗原ありがとう、この1年」と題し、特に被害の大きかった花山地区、栗駒耕英・岩ケ崎地区で1周年イベントが開催され、浦野が参加しました。長くなりますが、レポート致します。
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震災から11ヶ月が経ち、集落を結ぶ道路の避難指示・勧告の大半が解除されました。しかし、解除後すぐに自宅で生活できる人は、実はあまり多くありません。地震の影響で全壊・半壊した家もあります。また、倒壊は免れても、1年間に痛んだ家の補修や、生業であるイワナの養殖やイチゴ栽培の再生、地震で失われた観光資源などの影響による収入の激減など、これから解決すべき課題は山積しています。
入山が制限されている間も、わずか4~5時間程度の一時帰宅の中で、少しずつ畑を整備したり家の片付けなどを行ってきました。一部のイチゴ農家ではその甲斐あって、例年の6割程度ですが、今年イチゴの収穫ができました。私たちボランティアにも取れたてのイチゴを振舞ってくださいました。この一粒を今手にするまでに、皆さんが乗り越えてきた悩み、苦しみ、我慢、憤り、怒り、そして今やっと手に出来た喜び、反面、完全にもとの生活に戻るためには長い時間がかかるであろう現実と、それに立ち向かおうという意気込み・・・たった一粒のイチゴから、幾重にも重なる皆さんの努力や思いをひしひしと感じました。
耕英地区に住むKさんとは、昨年11月頃に仮設住宅で出会いました。その時は「仮設にいると息が苦しくなる。山にいれば、生きてるって実感できるんだ。山での暮らしは俺の命だ。すぐにでも帰りたい。」と悲痛な面持ちでお話されていました。しかし今回、イベントの会場となった耕英地区の山脈ハウスで再会した時は、一変、生き生きとしたお顔のKさんがいました。満面の笑みで差し出された手は力強く、生きる力に溢れていました。そして、「俺たちは、ゼロからこの土地を切り開いてここまできたんだ。まだゼロに戻ったと思えば、出来ないことは決してない。」と力強く話されました。
その思いを指し示すかのように、ふと見上げると「追悼・感謝・絆~第2の耕英開拓記念日~」という大看板が掲げられていました。
「くりこま耕英地区震災復興の会」会長Oさんは、時折涙をにじませながらセレモニーの開会挨拶をされました。
「震災直後2日間は危険を承知で自分たちの土地を守ろうとみんなで地区にとどまった。避難指示が出てやむなく土地を離れたが、まさか生業まで出来なくなることは予想もしていなかった。しかし、神戸・能登・中越など過去の被災地の方々や、全国のNPO、ボランティアの皆さん、日本災害復興学会との出会いがあり、避難所生活、仮設住宅、生業の復興などの過程の節目節目で大きな力を貸してくれた。栃木・福島のボランティアさんは「応援の会」の立ち上げに尽力してくれ、毎週末に振舞われるカレーは心の励みになった。まだ規制がかかり自宅に戻れない方、行方不明の方のことを考えるとこの現状を手放しでは喜べない。生活再建においては、これからも茨の日々は続く。観光客が戻ってこなければ本当の復興とはいえないだろう。しかし生かされた立場から、追悼・感謝・絆を大切にしながら、応援してくれる皆さんの気持ちを励みに、これからも頑張っていきたい。」
セレモニー終了後は、いまだ8名の行方不明者のある駒の湯温泉付近に出向き、キャンドルの明かりの下、読経と焼香がとり行われました。「駒の湯温泉は、1世たちが自分の家を建てるまでにみんなで共同生活をしていた場所なんだよ。いわば俺たちの出発地点だ。みんなだいぶ世話になった・・・。」と87歳の1世の方がポツリとおっしゃいました。
災害現場に行き、復興の過程に関わる時、いつも思うことがあります。
それは、被災者の皆さんの「生きる力」の強さです。とりわけ耕英地区の皆さんは、先人への尊敬心と、自然と土地への思い、人を大切にする心の温かさが3世代にわたり脈々と受け継がれていると感じます。ここには生きる基本がある気がします。
だからこそ、私たちはこのような地域を守らなければならないと思います。災害で失われることがあってはならないと思います。災害の大小で、一人ひとりに向けられる関心や受けられる支援の内容に差があってはならないと思います。
これから耕英地区では、本格的な復興が進み、その過程をよそ者がどのように応援できるのかが引き続き大きな課題となると思います。
私たちはこれからも、耕英地区の皆さんとのつながりを大切にしながら、遠く離れた地域からでも応援できる支援を考え続けていきたいと思います。
最後に、お亡くなりになられた15名の方のご冥福をお祈りすると共に、行方不明者8名の方の一日も早い発見を心から願っています。
※震災から1年を振り返り、耕英地区での復興支援に関する事業に関わっていた代表理事・栗田の記事が、読売新聞6月10日(金)に掲載されました。
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「岩手・宮城内陸地震から1年」
岩手・宮城内陸地震から6月14日で丸1年になります。まずは犠牲となられた方々のご冥福をお祈りいたします。地震当初はボランティアや報道陣でごった返ししていた現場も、今では閑散としています。しかし、土砂で埋まった駒の湯温泉のあの旅館でまだ行方不明者があること、また、つい先日(5月11日)避難指示が解除され、11ヶ月ぶりに自宅に戻られた方々がおられる現実をご存知でしょうか。「一部の地域の小さな災害」の風化ほど著しいものはないというのが、1年を振り返っての感想です。
当法人では地震翌日からスタッフを1週間程度派遣して、現地の災害ボランティアセンターに協力し、その後も「山に帰れない」方々に対して、日本災害復興学会の諸先生方とともに、被災された方の不安や悩みにひざを突き合わせて話をしてきました。また、新潟県中越地震や能登半島地震で被災された方々を現地にお呼びし、実際の体験談から今後の「暮らし」について語り合い、交流していただく企画などを、不十分ながらも粘り強く繰り返してきました。なぜなら、被災者にとって見れば、全体的に被害が小さいということは何ら無関係で、一人ひとりの受けた被害や苦しみは、これまでの災害と何ら変わらないからです。
当方らが交流を続けている地区の一つ、栗原市栗駒耕英地区は、今回の地震で家屋の全半壊はもとより、斜面崩壊や道路の寸断が著しく、即座に避難指示が出され、全員がヘリコプターで町場に避難されました。「命を守る」という点では、全員無事で避難が完了したことは不幸中の幸いでした。しかし次の「暮らし」の問題がすぐに突きつけられました。住民のほとんどが生業としている「イワナの養殖」や「イチゴの栽培」等が山に帰れないため継続できない危機に直面したからです。『あの時は助かったと思った。しかし今は生きるも地獄だ。』とは、1週間後の被災者の生の声です。この地区は、戦後の満州の引き上げ者によって、血のにじむような思いで荒野を開拓してきた土地柄で、現在はその3世がその魂を受け継いでいます。その大事な後継者が『家族6人を養うのはもう限界だ。貯金もなくなってきた。転職しかない。』と涙を浮かべて2世に相談されていた姿を目の当たりにした時、「小さな災害」と「世間の風化」が、戦後の日本をたくましく支えてきた歴史や一大観光地に育て上げた文化を見捨てることがあってはならないと感じました。当然ながら行政による支援策が期待されるところですが、商業に関するものはもともとメニューが少ないのが現実なのです。
あれから1年。やっと「山に帰る」ことができた被災地の復興はこれからが本番です。言葉では言い表せない苦悩を乗り越え、力強く復興を遂げられることを願わずにはいられません。私たちも、被災地を訪れたり、現地のものを購入することで、どれだけ励みになるかは計り知れません。また、こうした地震災害によって、この地区と同じように孤立する可能性のある集落が約2万箇所に及ぶことが、内閣府の調査でわかりました。地震のたびに、日本の歴史や文化が葬り去られてなるものか。この地区を今後も見守り続けることができるかどうかが、日本に住む私たち一人ひとりに問いかけられているように思います。