【続報】福島県沖を震源とする地震への対応について

みなさま
RSY事務局です。
2月13日の福島県沖を震源とする地震からもうすぐ2週間が経ちます。
RSYは、活動拠点を置く宮城県七ヶ浜町の現地スタッフや、震災がつなぐ全国ネットワーク(震つな)および、全国災害ボランティア支援団体ネットワーク(JVOAD)らと情報共有し、見守りの継続と、現状把握に努めています。
以下、報告です。
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 1)宮城県七ヶ浜の被害について
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今回の地震で、特に大きな被害が見られなかったことは、前回の報告の通りですが、断続的な余震による恐怖や、震災当時のフラッシュバックに、体調を崩したり、眠れぬ夜を過ごされている方が少なくありません。 RSY七ヶ浜常駐スタッフであり、七ヶ浜町民でもある石木田から、その心情を表すレポートが届きました。
このレポートは、見た目の被害が少ないからと言って、今も、決して安心できる状況なわけではないということ訴えています。たった一度の震災が、心と身体に残した傷の深さと共に、「復興」という言葉の本質を、改めて考えさせられています。
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★石木田レポート
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東日本大震災から3月で10年を迎えようとしている2月13日午後11時8分頃、福島県沖を震源とする地震が発生しました。七ヶ浜町は、震度5強を観測しました。幸いにも停電や断水はなく、地震の状況をテレビやラジオで情報を得ることができました。
ほどなく、津波の心配なし、との発表に安堵した方も多かったようです。余震は続いていましたが、RSYとしてはできるだけ情報収集すべく、一人暮らしの方やご高齢の方々、きずなハウス常連さんなど把握できている範囲で、安否確認を行い、情報を共有しました。それによると、家屋の倒壊やけがなどの大きな被害はないとのことでした。
翌日は、直接会いに行ったり、発災後に町内18ヶ所に避難所を開設したうちの沿岸部の地区避難所を回ったりして、状況把握に努めました。避難所で過ごした住民は少なかったか、ほぼなかったようで、午前中には閉鎖しているところもありました。被害の多くは、食器が壊れたり物が倒れたり、壁にひびが入りクロスが剝がれる等でした。
発災から1週間程度は震度6前後の余震に注意、とのことで毎日続く余震のなかで、壊れた食器や部屋の中を片付けていらっしゃる中、目には見えない心の変化について聞き取りました。
●Aさん

「ダイニングの脇に置いてある書類棚から一つ残らず落ちたよ。冷蔵庫との間だから、足の踏み場がなくて。今は元に戻しました。仏壇の下の食器は全部壊れた。お供えのお菓子が線香立ての灰の中に落ちていたのに、線香立ては倒れなったのよ。灰が散らからなくて良かった。」と笑いながら話してくださいました。家の中の観音開きの戸棚には、開かないように紐が結んでありました。

Aさんを伺ったのは、発災後のやり取りの中で、「毎日がフラッシュバックだ」という言葉が気になったからです。話を聞くと、「仕事をしている時は仕事だから良いんだけど、うちに帰ってくると何もしたくなくなるの。本当に今までこんなことはなかったのに。なんでだろう、年取ったんだよね、あれから10年だもんね。」とつぶやくのです。
10年前、地域での支援活動を、率先して切り盛りしたAさん。当時の記録もきちんととっており、今も地域の多くの活動に携わっています。誰もが平等にあれから10年、月日を重ねてきてきました。でも、 60代になり「年取ったんだよね。」というAさんの言葉は、 自分で思うように物事が進まないことに、がっかりしているような、それは当たり前だと自分に言い聞かせるかのような、とても深いひと言に感じました。ご自身の健康もさることながら、家族の健康のこと、コロナ禍での経済面の問題など抱えるものが多く、Aさんのしんどさを笑顔の奥に感じました。

●Bさん
10年前、仙台市内の保育園で保育士をしており、ちょうど同僚が同じ方向で、同乗させてもらい帰宅しました。途中、母とメールでやりとりし、母からの「今から帰ります」のメッセージが最後となり、不通になってしまいました。

保育士をしていた母は、帰宅しようとしたものの、停電で信号も動かない中、不安を感じ、保育所で一夜を過ごすことにしたことを、伝えられずそのまま朝を迎えました。
一方、帰って来るはずの母が帰って来ないと、避難所を回り、親しくしている同級生のお母さんに「お母さんがいない」と最悪の状況を思い、泣き崩れました。また、仙台の祖母の家(母の実家)が、海の近くだったので、翌日、姉と2人で祖母の家に向かうも、途中から瓦礫の山で行くことができませんでした。携帯電話もつながらず、不安な中でただただ泣いていました。まもなく、何とか、お互いに無事であることが確認でき、それはまたそれで安心して号泣でした。その後も震災の話が出ると、自然と涙があふれてきます。
2月13日の地震の時は、最初に祖母に電話し、無事なことで泣き、次に母と一緒にいた姉の声を聞いては、号泣していました。10年前のフラッシュバックで不安と恐怖、無事なことの安堵感から、感情があふれ出たものと思います。家族の元気な声を聞き、旦那さんからも「大丈夫だから落ち着いて」と寄り添ってもらい、徐々に落ち着きを取り戻しました。その後、気持ちを切り替えて、職場のスタッフに電話し、上司の指示を仰いだとのことです。「自分でもあんなにパニックになっていたのに、冷静に職場に電話している自分が不思議だった」と振り返っていました。

●石木田裕子(RSY七ヶ浜スタッフ)
現在はRSYのスタッフですが、10年前は七ヶ浜町に隣接する多賀城市で保育士をしていました。毎年、2月になるとテレビ番組で震災特集が組まれ、ほとんど毎日と言っていい程、復興の様子を伝えます。今年は、特にコロナ禍ということもあって、語り部活動や伝承館等施設の自粛や休館からの再開が報道されています。

そういった環境もあってか、気持ちがざわざわするなかでの2月13日の地震です。孫と就寝中だったので「あっ、地震!」と目が覚め、すぐに収まるだろうと思っていたら、だんだん揺れが激しくなり、孫を抱えて布団をかぶり、収まるのを待ちました。その間、10年前も同じように未満児の子ども達に布団をかぶせて、揺れが収まるのを待っていたことを思い出し、長い揺れとギシギシという建物の音に一瞬、崩れるかも、と覚悟しました。
足元にプリンターが落ちて、思わず「わぁ!」と声を出してしまい、孫も起きてしまいました。やっと、揺れが収まり、停電にならなかったことに安堵しながら、下に降りました。ソファに座ってテレビを見ていても、余震を感じ、立ち上がろうとしたら膝に激痛が走り、歩くことができなくなりました。テレビでは、就寝するときは2階で、と言っていましたが、とても階段を上れる状態ではないので、そのままリビングで横になりました。それが3時頃で、小さな揺れや音にもビクッとなり眠ることはできませんでした。朝になると激痛はやわらぎましたが、今度は頭痛に襲われ、それは1週間程続いています。余震は大小あり、毎日続いています。
雪がちらついたりすると、10年前の情景が一気に甦り、体が震えることもあり、一人でいると、ふと亡くなった伯母や知り合いのことを思い出して、どうしようもない悲しみに襲われることもあります。なぜ、津波が、津波さえなければ、と頭では自然のことだからどうしようもない、とわかってはいても、自分のなかで落としどころが見つからずに、今ももがき続けています。
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2)福島県・宮城県の被害について
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JVOADは内閣府と連携し、3名の先遣隊を派遣しました。
被害のほとんどは屋根瓦の破損によるもので、宮城県山元町や福島県新地町などで特に多く見られています。新地町は、1,300件の一部損害被害が報告されています(消防庁発表・2月22日現在)。
本来ならば、1日でも早く修繕を勧めたいところですが、地元の工務店や大工等の事業所には依頼が殺到しており、対応が間に合っていない状況です。
JVOADは現在、 特に緊急度が高い要配慮者世帯について、JVOAD技術系専門委員会らと連携しながら、優先的に対応できる方法がないか、 地元の自治体や社会福祉協議会らと共に検討を重ねています。
以下より関係する情報が閲覧できます。
★JVOADホームページ
★全国社会福祉協議会ホームページ
★震災がつなぐ全国ネットワークブログ