皆さま
いつもお世話になっております。
死者・行方不明者約9万人の惨事となった中国・四川大地震から丸2年の12日、犠牲者の追悼と復興を祈る「メモリアルキャンドル&写真展」を開催いたしました。
当日は強風ふきすさぶ肌寒い一日でしたが、会場にした当法人事務所がある名建協ビル1階には大勢のかたにお越しいただきました。
キャンドルはペットボトルとティッシュなどの身近な材料で災害時にも使えるよう考えられた「ほのぼのあかり」を200本用意。「5・12 四川」の文字を幻想的に浮かび上がらせ、四川をはじめ今年4月に発生した青海省地震などの災害でなくなった人たちへの鎮魂の気持ちを表しました。
写真展は当法人スタッフやボランティアの方たちの計4回にわたる現地訪問のようすから、この2年という月日の流れを感じさせるような写真を選び、クイズ形式で見ていただきました。
さらに、このビルの近くにある四川料理専門店「桃花源」さんのご協力でパオズ(小さな肉まん)、杏仁豆腐、タピオカ入りミルクティーを特別価格で販売。本格的な中国の味が好評でした。売り上げの一部は今後の支援活動にあてさせていただきます。
ペットボトル集めや当日の会場設営、料理販売や呼び込みなどには、ボランティアの方々をはじめ愛知淑徳大、名城大、名古屋大の学生さんたちにも大活躍していただきました。当法人にとっては昨年秋の事務所移転以来、まさに「足元」でのイベントは初めてで、いろいろ不慣れな点もあったかと思いますが、多くの皆さんのご協力で成功させることができました。深く感謝申し上げます。
今回、お聞きした多くのご意見をもとに、四川をはじめとした国内外の被災地の支援にどのように取り組むべきか、考え続けていきたいと思います。 今後ともご理解、ご協力よろしくお願いいたします。
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追記:この事業で連携しているCODE海外災害援助市民センターから、以下のような現地レポートが届いております。被災地の現実の一端を知ってもらえればと思います。
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2年目の一日を光明村で過ごしたYさんのレポートです。
この2年間通い続けた北川県光明村で静かに黙祷した。この日、四川テレビでは朝から特番で北川県城、綿竹市漢旺鎮、青川県、彭州小魚洞、都江堰などの重被災地では、再建された綺麗な町並みやモニュメントを背景に記念式典が執り行われる姿が映し出されていた。
昨年の1周年の際は、北川県城に入り、沢山の遺族の方々が追悼する中、ひとり合掌させてもらった。3日間開放された北川県城は、約30万人が追悼に訪れ、途中の道は3,4時間の渋滞になるほどのにぎわいであった。
2周年の5月12日も地震後、一緒に活動したボランティアの仲間と共に北川県の光明村へと向かった。中央政府や対口支援先の山東省の政府幹部が北川県城での追悼式のために通行規制や渋滞を予想していたが、全く渋滞もなく、スムーズに光明村へとたどり着いた。
村はいつもよりどこか静かな感じだった。田んぼで田植えにいそしむ人々、北川県城に追悼に行った人々、いつもと同じようにのどかに暮らす人々など人それぞれであった。
村の医師、Pさんはいつものように笑顔と握手で僕らを迎えてくれ、共に食事をした。地震後に生まれた孫のXくんの遊ぶ姿を見て嬉しそうに笑う彭さんの笑顔を2年前、地震直後にはとても想像できなかった。地震の1年前に建てたばかりの4階建ての自宅兼診療所が倒壊し、「自分の命に代えても家を守りたかった」と後にこぼした彭さんは、自分も被災者であると同時に医師として必死に村人の看病に奔走した。その後、張り詰めた人が切れるかように鬱になりかけた。そんな時、僕らボランティアがやってきた。最初は警戒していたPさんも次第に心を開き、共に汗を流すようになった。今では、僕らの一番の理解者のひとりである。
診療所を失い、暑い夏も寒い冬もずっとテントで診療していたPさんは、その後、住宅再建が進むにつれて空き屋になっていく仮設住宅の一室を借りて診療所を開いていた。だが、数日前にその仮設住宅も撤去された。震災を思わせる仮設住宅をいつまでも残しておく事はできないという事らしい。診療所の薬品は補修した家の片隅に置かれていた。
今後、政府によって再建される「総合活動センター」に診療所が入るかどうかも未だ決まっていない。当然、自力で診療所を再建する経済的な余裕もない。
これがPさんの「震災2年」の現実である。テレビから映し出される派手な復興の様子と光明村な静けさが対象的であった。