皆様
お世話になっております。
RSY ボランティアきずな館 郷古です。
「3月11日」という日がまた廻ってきました。あの未曾有の大震災から2年が経過したことになります。
「悲しかった、苦しかった・・・」
そんな思いのままの2年間だったのか。
いや、その中でも
「嬉しかった、楽しかった・・・」
があった。
これは二年を迎えて「今を生きる」一人の住民のつぶやきであり、誓いをご紹介させていただきます。
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【Aさんの言葉】
3月11日の地震のときは利府町(七ヶ浜の隣町)から自宅に帰る途中だった。車の中でいきなりの横揺れにあわてて、車を止めてうずくまった。すごく長くゆれていた。それからすぐに自宅へ向かった。正直あの揺れでは自宅も倒壊したと思ったが、ちゃんと建っていた。玄関先の花瓶がひとつ倒れていたぐらいであとはなんともなかった。外では大津波警報が鳴っていた。
今思うと、私はこの時点で「パニック状態」だったんだと思う。一緒に逃げようと思っていたが、車は必要だと思ったので(家で車を二台持っていた)旦那に別々に逃げようと伝えた。そして「先に逃げてていいよ。中央公民館に行きなさいわ」となぜか遠い避難所を教えた。(普段非難訓練していたのは、近くの小学校)「津波は来たとしても床下ぐらいだろう」と思っていた。位牌と毛布と薬を持って逃げようとしたが、ハンドルロックがかかってしまって動けなかった。いつもならすぐにはずせるがパニックになってはずせなかった。大雪で寒かったが外に出て辺りを見ていたら、近くの人が「なにやってるの早く逃げなさい」とハンドルロックをはずしてくれた。
そこから中央公民館でも小学校でもなく津波の来ない高台に住んでいる友達の家に避難した。車の運転途中で、水がすぐそこまで迫っているのをみてゾッとした。その時は携帯は通じなかったが、夕方ぐらいに娘たちと連絡が取れて、避難所である小学校で待ち合わせをした。小学校の避難所は人がいっぱいで車中泊で二日間過ごした。配給されたのは小さなおにぎり一人一個だけであとはなかった。
その後家族そろって多賀城市(七ヶ浜の隣町)の親戚の家に行った。多賀城での生活は一週間くらいで、私たち家族は「水係り」になり水を求め各地を回った。
その後は利府の実家へ向かいそこで過ごした。多賀城にいたときからだが、震災3日目から七ヶ浜の自宅に通った。一度だけ避難所から見に行ったことがあったが、家に対して「良くぞ頑張って津波に耐えたね。えらい。また住むから一緒に頑張ろうね」と思った。
しかし、電柱やら瓦礫やらが家に突き刺さり、とても住める状態ではなかった。家の中は私と旦那と娘の3人で、外は近所の人たち合わせて10人くらいで片づけをしていた。6月には抽選で当たり、いよいよ「仮説暮らし」が始まった。
8月にはどろぼうに入られては困るので、自宅に窓ガラスを取り付けた。自宅は海が見えるせいもあるか、仮設暮らし始まってからはなかなか行かなくなった。
9月に入り、現実が見えてきた。「住宅ローンが残り10年もある、家も直さなくてはならない。仮設暮らしで体調も悪い。」気分も落ち込み、この先の不安からか「何であの時、流されなったんだろう、こんなに辛いならば死んだほうがマシだったんではないか」と言葉が出てきてしまった。娘も同意見だった。
この時期にボランティアさんに出会っていなかったら、本当に何があってもおかしくはなかった。
きっかけは孫(子どもたち)と遊んでくれるボランティアさんだった。仮設は狭く、子どもたちもストレスがたまっていた。「近くに住んでいて遊んでくれる人」がいると子どもたちから聞いた。最初は「子どもたちと遊んでくれてありがとう」を伝えるつもりだったが、ついついそのボランティアさんと自分のことを話し込んでしまった。話すとなんだか胸がすっきりした。つっかえていたものが取れたみたいだった。
実を言うと色んなボランティアさんがいるから注意していた。(そういう話も聞いていたので)しかし、それからはイメージが一変した。自宅の片付けもボランティアさんにお願いしようと思った。すぐボラセンに行った。結果、とても家をきれいに片付けてくれた。とても感謝をしている。
おかげで4月末には仮設を出て自宅で生活する予定。
しかし、この先の不安はぬぐえない。
【Aさんの旦那さんの言葉】
地震が起きたとき、必ず津波が来ると確信した。普通の揺れではなかった。
まず、思ったのが「これでは仕事が出来ないな、どうしよう。借金が払えない」だった。
自宅の片付けは心も身体もとても疲れた。津波の強さは本当にすごい。どっから手をつければいいのか分からない状態だった。
今では「とっておけば良かった」と思えるものもあの時はかなり捨てた。火事場の馬鹿力というものなのか重いもの(冷蔵庫など)をひとりで持って投げていた。ぶち切れていたんだと思う。震災当初(3月~4月)はボランティアさんがいなかったので自分たちでやっていた。本当に大変な作業だった。ボランティアさんがいたら頼んでいたよ。2ヶ月で5kgは痩せた。
仮設は狭くて、体が痛くなる。壁は薄いので隣に住んでいる人にも気を使う。プライベートもない。
【お二人の今現在】
・家がある人(直した人)とない人との関係が良くない。
溝がさらに広がる時期に来ている。温度差がありすぎて、どうしたらいいかわからない。
・ローンがなかったらこの地から離れていた。地元という意識はもうない。
・職人さん(建具屋)がいなくて4月末までに自宅が生活できるレベルに達するかは未定。
・海が近くなるために地震やサイレンに敏感になるだろう。津波が来る夢は未だ見る。
・当初は助け合いのムードだったが、今は悪い意味で「震災前に戻っている」
・ボランティアさんとの手紙のやり取りができている。ボランティアさんは私たちが出来ないことをしている。来てくれるだけでもありがたい。
【皆さんに伝えたいこと】
・地震=津波と頭に入れておく。
・津波が来たら家には戻らないこと。
・家族の集合場所を決めておき、助けに行かない。まずは自分の命を守る。
・車にある程度のものは積んでおいた方がいい。(若干の現金、水、ガソリン、乾電池、ゴム手袋、ビニール袋、タオル、新聞紙、ラジオ)
・大金は銀行に預けること。タンス預金はあまりよくない。
・一番大変だったのが、「水」がなかったこと。
・平常時の人間関係(隣近所、地域との付き合い方で震災時、その後もかなり違う)
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「ボランティアさんに本当に感謝している」、「ボランティアさんがこの頃見えなくなって寂しい」、「一人ひとりの復興のスピードが違いがはっきりしている」
このような声も出てきています。
時の流れとともに、現場の課題も移り変わっていきます。
「今更ボランティアなんて・・・」
「今更」なんて言葉はありません。
「早くボランティアに来たから偉い」
そんなことはありません。
被災地の「今」に住民の皆さんに寄り添いながら取り組めばいいと思います。
レスキューストックヤードは来年度も七ヶ浜町に常駐スタッフを置き、これからも七ヶ浜町を応援する所存です。
そのためには皆様のお力添えがこれからも必要です。今後とも宜しくお願いいたします。